東京国際映画祭事務局 作品チーム・アドバイザー 森岡道夫さんロングインタビュー
第8回 カーペット入場と2都市開催(第15回2002年から第17回2004年TIFF)
スニークプレビューが登場した第15回映画祭
————第15回東京国際映画祭が開催された2002年には、FIFAワールドカップが日韓同時開催されました。ノーベル賞に小柴昌俊さん(物理学賞)と田中耕一さん(化学賞)が選ばれて、日本人初のダブル受賞が話題になったのもこの年です。約四半世紀ぶりに北朝鮮の拉致被害者が帰国したことは、戦後の闇を照らす重要な出来事でした。
森岡道夫(以下、森岡): 卑近な例で恐縮だけど、タバコ吞みはこの年から肩身が狭くなりましたね(苦笑)。千代田区で路上喫煙禁止条例が施行されて、歩きタバコに罰金を課せられるようになったのです。以降、公共施設や飲食店で分煙の流れが加速しました。
————いまは事務局でも屋外に喫煙スペースを設けていますね。
森岡:昔はデスクの上に灰皿を置いて一服しながら仕事をしたものです。映画でも、会話の場面でタバコを楽しむのは日常の光景でした。『カサブランカ』(1943)なんか、もう場面ごとに紫煙が舞っている(笑)。映画にとってタバコは欠かせない小道具だったのです。いまは喫煙できる場所が少なくなって、タバコを吸うシーンそのものが少なくなりました。
————映画が世の変化を写す鏡だとしたら、映画祭は、文化への国民の関心度を測定するバロメーターなのかもしれません。
森岡:「シネマプリズム」を「アジアの風」に変更したのも、その流れで考えると面白いのかもしれません。第10回(1997)を迎え、アジア地域以外の優れた作品も上映しようと「シネマプリズム」を立ち上げましたが、アジア圏の映画の製作本数がここ数年で激増したため、この第15回で見直しを計ることになりました。
配給会社が競い合うようにたくさんできて、ミニ・シアター文化が栄えたことも要因のひとつです。欧米の芸術性の高い映画はひとまず業界に委ねよう。いま一度、アジアを代表する映画祭として地歩を固めようとなったのです。そうして「アジアの風」が誕生しました。
桜井(毅)さんは任期満了で松竹へ戻ることになり、新部門の選定担当には、映画評論家の暉峻創三さん(現・大阪アジアン映画祭プログラミング・ディレクター)が決定しました。
————東京国際映画祭に批判的だった自分に、なぜお鉢が回ってきたのかと、暉峻さんは仰天されたそうですね。
森岡:批判的とはいっても、映画を愛する気持ちに変わりはありません。暉峻さんは長年アジア映画を専門に評論活動を展開され、佐藤忠男さんの推薦もあったので、引き受けて下さると思っていました。在野の方なので、「アジアの風」選定プロデューサーという肩書きを用意しました。
————暉峻さんは初年度は就任が遅れ、国内で情報収集をして作品選定されたと伺いました。
森岡:インターネットが普及して、映画祭でもこの年からパソコンが導入されてIT化がスタートしました。こうした時代の流れが幸いしたのでしょうね。『JSA』(2001年公開)で脚光を浴びたパク・チャヌク〔朴贊郁〕監督の新作『復讐者に憐れみを』(韓国)、ベンエーグ・ラッタナルアーン監督の『わすれな歌』(タイ)、カラン・ジョーハル監督の『家族の四季 愛すれど遠く離れて』(インド・TIFFタイトル『時に喜び、時に悲しみ』)など、大変充実した作品が集まりました。
————大衆的な作品で一世を風靡した香港の映画会社、ショウ・ブラザーズの特集上映も開催されました。
森岡:『キル・ビル』(2003)では冒頭のタイトル・クレジットに「SB」の文字が表れますが、あれはショウ・ブラザーズへのオマージュです。タランティーノもショウ・ブラザーズが大好きだったんですね。
ショウ・ブラザーズは1960年代中盤から、剣劇とカンフーを2本柱にヒット作を量産して黄金期を迎えますが、製作担当のレイモンド・チョウ〔鄒文懐〕が独立してゴールデン・ハーベストを設立し、ブルース・リーやジャッキー・チェンの映画でブームを築くあたりから失墜し、1980年代に撮影所を閉鎖しました。
黄金期には日本の映画人が多く招かれており、特集では、井上梅次監督の『香港ノクターン』(1966)、キン・フー〔胡金銓〕監督の初期の代表作『大酔侠』(1966・本作と『香港ノクターン』は西村正が撮影監督を務めた)、キングコングの香港版を目指して日本の特撮スタッフが結集した『北京原人の逆襲』(1977)などを上映しました。
『香港ノクターン』井上梅次監督(左)とチャン・ペイペイさん(右)
————同時多発テロから1年。平和への祈りを込めて、ソビエト映画の超大作『戦争と平和』(1966-67)が特別上映されました。
森岡:これはトルストイの一大長編を、ソビエト連邦が国家の威信にかけて映画化したものです。戦闘シーンのエキストラだけで12万人。撮影期間は足かけ6年。『クレオパトラ』(1963)と並ぶ世界映画史上屈指の大作です。全4部作ですが日本では1966〜67年にかけて編集版が公開され、セルゲイ・ボンダルチュク監督のオリジナルが上映されたことは、これまでありませんでした。
幸いにも、字幕付きの全長版フィルムが日本で保管されているのがわかり、権利問題をクリアしてオーチャードホールで上映しました。途中で休憩が入るため弁当付きの前売券を販売したら、3600円という高価な値段にもかかわらず完売しました(笑)。総時間7時間10分となるスケールの大きさに観客は圧倒されていました。
————往年の大作が盛大に上映される一方で、東京国際CG映像祭が開催されました。
森岡:世界初のフルCG映画は『トイ・ストーリー』(1995)ですが、その後技術は急速に進化して、ゲーム・ソフトから派生した『ファイナルファンタジー』(日・米/2001)における進化は、目を見張るものがありました。
未曾有の発展を遂げるCG業界にスポットを当て、『モンスターズ・インク』(ピクサー・アニメーション・スタジオ製作)、『シュレック』(ドリームワークス・アニメーション製作)、『アイス・エイジ』(ブルー・スカイ・スタジオ製作)の3本を上映し、各スタジオのスタッフを招いてシンポジウムやプレゼンテーションを開催しました。この催しは第17回まで3回開催されました。
————森岡さんがコンペ部門の作品選定を担当されたのは、この回が最後になりますね?
森岡:最後の回になりましたが、私にとっては残念な出来事がありました。47カ国から319本の作品が寄せられ、15本の作品を選定しました。この時はレベルの高い作品が集まり、選ぶのに大変苦労したのですが、一部の作品の上映を最終的に審査対象外とせざるを得なくなったのです。
————いったい何が起きたのでしょう?
森岡:国際映画製作者連盟(FIAPF)の規約に、「メイン・コンペティションの選出作は、FIAPFが認可する他の長編映画祭のメイン・コンペ部門選出作を除外すること」が謳われています。ところが、これに抵触するケースが見つかったのです。製作サイドが東京国際映画祭へ出品してくれたのに、販売権を持つワールドセールスが独自に動いて、作品を他の映画祭に出品していたのです。
————有力な作品が並んでいたそうですね?
森岡:『シティ・オブ・ゴッド』(ブラジル)、『藍色夏恋』(台湾・仏/TIFFタイトル『藍色大門』)、」『わが故郷の歌』(イラン)の3本が抵触していました。私としては、この3本が賞の有力候補と考えていただけに、残念な気持ちでした。
————グランプリは『ブロークン・ウイング』(イスラエル)が獲得しました。
森岡:『ブロークン・ウイング』は父を失った家族のなかで、母と姉の対立に心揺れる少年を見つめた秀作です。この作品もまた有力候補のひとつでした。
ニル・ベルグマン監督は第23回(2010)でも『僕の心の奥の文法』でグランプリを受賞し、監督と主演女優のオルリ・ジルベルシャッツさんは東京(国際映画祭)ではすっかりお馴染みの顔となりました。グランプリを2度受賞した監督はベルグマンさんただひとり。素直に偉業を誉め称えたいですね。
————川内通康GP(ニッポン放送会長)が放送業界の出身であることから、オープニングとクロージングのセレモニーは、音楽を使った華やかな演出が施されました。
森岡:川内さんは初年度は静観していましたが、2年目となる今回はご自身のノウハウを活かそうと様々なアイデアを提供してくれました。体調不良でGPを退く心積もりでいらしたこともあり、惜しみない労力を注いで下さいました。先程の『戦争と平和』の上映、「CG映画祭」の開催も川内さんの発案によるものでした。
オープニングでは、往年の名作映画を影絵のシルエットで映すなか、久石譲さん指揮の新日本フィルハーモニー交響楽団が『ニュー・シネマ・パラダイス』のテーマ曲を演奏して、幕を開けました。ゴージャスでしょう(笑)。楽屋は楽器を持った団員でごった返していました。
クロージングは山本容子さんが描いた映画の名場面がスクリーンに投影されるなか、アカペラグループのコーラスで幕を開け、セレモニーを開催しました。
オープニングで演奏した久石 譲さん
————ニッポン・シネマ・クラシックでも、音楽に因んだ特集が催されました。氷川きよしさんと小沢昭一さんが駆けつけてくれたそうですね。
森岡:「青春、映画、唄〜スクリーンを彩ったあの旋律」と題して、主題歌が有名な映画の特集を催しました。『東京ラプソディ』(1936)、『愛染かつら』(1938)から戦後を象徴する『東京キッド』(1950)、歌う映画スター石原裕次郎、加山雄三の主演映画までの8本です。
『愛染かつら』の主題歌は「旅の夜風」ですが、タイトルよりも「花も嵐も踏み越えて」という歌い出しが有名ですね。「東京キッド」は、少女の美空ひばりが歌う映像をよくテレビで流しているので、若い方でもきっとご存知でしょう。
氷川さんは、「勘太郎月夜唄」(1943年の映画『伊那節仁義』主題歌)と「哀愁列車」(1957年の同名映画主題歌)の2曲を熱唱してくれました。あまりの歌のうまさに、小沢さんも舌を巻いていました(笑)。
小沢昭一さん(左)と氷川きよしさん(右)
————この回の国際審査委員は、リュック・ベッソン審査委員長(監督)を筆頭に、「アジアの風」で新作が上映されたパク・チャヌク(監督)、日本の原作物を多く映画にしているリー・チーガイ〔李志毅〕(監督)、衣装デザイナーの黒澤和子と若手とベテランが並んでいます。なかでも著名な撮影監督ジャック・カーディフの参加は、クラシック映画ファンの間で大いに話題になりましたね。
森岡:カーディフは絵画的なタッチを映画に持ち込んだ功労者です。オールド・ファンには神様みたいな存在です。その業績を讃えるために、テクニカラー映画の金字塔『赤い靴』(1948)、『黒水仙』(1947)の2本を特別上映しました。
パウエル=プレスバーガーと最初に組んだ作品、『天国への階段』(1946)も傑作です。死にかけた空軍飛行士が恋に落ちる話で、天国をモノクロ、地上をカラーで表現する斬新さに当時誰もが驚嘆しました。
ジャック・カーディフさん(左)と、アメリカで活躍する撮影監督岡崎宏三さん(右)によるトークショーの様子
————この第15回では、映画祭史上初となるスニークプレビューが開催されました。どんな作品が上映されるのか憶測を呼んで、前売り券は飛ぶように売れたそうですね。
森岡:ワーナーの大ヒット映画の第2弾『ハリー・ポッターと秘密の部屋』を上映しました(笑)。会場で松竹の大谷(信義)社長の姿を見つけて、クロージング作で『壬生義士伝』を上映したのに、「スニークプレビューも松竹?」と勘違いされた来場者がいたそうですが、ダニエル・ラドクリフを始めとする出演者のメッセージがスクリーンに流れるともう大歓声。熱狂のうちに映画祭は幕を閉じました。
————現在の東京国際映画祭のプログラミング・ディレクター、矢田部吉彦さんはこの回が映画祭初参加だったと聞いています。
森岡:矢田部さんはかつてフランス映画祭で活躍していて、TIFFへはボランティア・チームのキャップとして参加しました。映画を愛するあまり銀行を辞めた変り種ですが、確かな見識と語学が堪能であることから頭角を表し、次第に映画祭に欠かせない存在になっていきます。
————また、この今回からiモードでチケットを購入できるようにしたり、ボランティア制度を導入したりと、今に至る様々な試みが始まりました。
森岡:目立った混乱が起きなかったのは幸いでした。ボランティア・スタッフのおかげで、観客の皆さんにホスピタリティ精神を発揮できたのは大きな功績でした。
オープンした六本木ヒルズを、もうひとつの会場として開催
————第16回(2003)は角川歴彦GP(現・角川グループホールディングス会長)となって初めての映画祭です。角川氏は『失楽園』『沈まぬ太陽』などのプロデュースでも知られる方です。就任にあたって、大変意欲的に臨まれたそうですね。
森岡:角川氏は、映画祭を国家の一大イベントと位置づけ、就任に際して、「第16回東京国際映画祭宣言」を発表しました。1.映画事業者の総結集をはかり、2.理解と共感を呼び覚まし、3.各地の映画祭の頂点に立つ「日本映画祭」との位置づけを明確にし、4.官民一体となった産業振興を推進し、5.「日本ブランド」をアジア並び世界に向けて、意欲的に発信すること————を骨子とした立派な宣言でした。当時、「五箇条の御誓文」と言っていましたね。
————宣言を実現させるために、大胆な改革が打ち出されます。
森岡:その第一弾が渋谷でのレッド・カーペット敷設です。車の往来の激しい文化村通りを封鎖し、約100メートルのレッド・カーペット入場を開催しました。当初は路線バスが走行する目抜き通りですから、実現は困難と考えるスタッフも多かったのですが、角川氏は関係各所に話をつけて不可能を可能にされます。その剛腕には感服しました。
————翌年から会場のひとつとなる六本木ヒルズでプレイベントを始めたのも、この年が初めてです。
森岡:3月にオープンした六本木ヒルズは、映画館や美術館が集まり、世界の名立たる企業がオフィスを構えるなど、東京の新たな文化スポットとして脚光を浴びていました。翌年以降、メイン会場として渋谷Bunkamuraと併用することが決まり、そのアピールを兼ねてオーチャードホールでのセレモニーの模様を六本木ヒルズアリーナに生中継しました。
並行開催の話に、渋谷区や劇場提供などの便宜を図ってきた東急系列の企業は難色を示しましたが、六本木ヒルズでは映画上映の他に、シンポジウムやセミナー、マーケットも施設内で賄えるメリットがありました。翌第17回大会から渋谷と六本木での開催が実現されます。
————この年からプログラミング・ディレクター(PD)制度が導入されました。
森岡:カンヌやベネチアなど伝統ある国際映画祭ではPD制度を採用していますが、TIFFでは「作品部」の肩書きで、私や市山さんが担当部門の作品選定を務めてきました。一連の改革に伴い、ディレクター制度を採用することが決まり、私はその責任者として人選を急ぐことになりました。
方々に声をかけたところ、ヘラルド・エースで『ニュー・シネマ・パラダイス』等を買い付け、長年映画祭を手伝ってくれていた吉田佳代さん(現・アスミックエース)がコンペのPDに名乗りを上げました。「アジアの風」は暉峻(創三)さんが引き続き担当してPDを務め、特別招待作品は東宝の出向社員、小野田光さんがPDとなって作品選定を行いました。
————賞金を円建てからドルに変更したのもこの年からです。
森岡:角川氏の「国際映画祭だからドル建てにしよう」という発案で、円建てを廃止しました。これは今も続いています。この時はグランプリに8万米ドル、審査員特別賞に2万米ドルが贈られました。
————グランプリには『故郷の香り』(中国・TIFFタイトル『暖〜ヌアン』)が選ばれました。主演の香川照之さんが男優賞に輝いています。
森岡:『故郷の香り』は、都会に出た青年が10年ぶりに帰郷して初恋の女性にめぐり会う物語です。フォ・ジェンチイ〔霍建起〕監督は、第22回(2009)にも『台北に舞う雪』をコンペに持ってきてくれました。
香川さんは『鬼が来た!』(2000)で中国映画に初出演しています。本作では、台詞のない中国人という難役を見事に演じました。近年は9代目市川中車として、歌舞伎界でも存在感を発揮していますね。この年は、女優賞に『ヴァイブレータ』の寺島しのぶさんが選出され、男優女優とも日本人が受賞の栄誉に輝きました。
授賞式での香川照之さん(左)と寺島しのぶさん(右)
————国際審査委員の顔ぶれを見ると、コン・リー〔鞏俐〕審査委員長(女優)、『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』のアーヴィン・カーシュナー(監督)、前年「アジアの風」で上映された『わすれな歌』が好評で封切り公開が決まったベンエーグ・ラッタナルアーン(監督)、ジョゼ・ジョバンニ監督作『父よ』(2001)の演技が話題になったヴァンサン・ルクール(俳優)、Jホラー・ブームを牽引した一瀬隆重さん(プロデューサー)が並んでいます。
森岡:コン・リーは日本でも中国でも、若い頃は山口百恵によく似ていると評判になりました。『SAYURI』『ハンニバル・ライジング』では日本人役を堂々と演じていましたね(笑)。前年、ベネチア国際映画祭で審査委員長を務めています。慣れたもので訥々とこなしていました。
クロージングに敷かれたブルーカーペットに登壇した審査委員の皆さん
————この年、新型肺炎SARSが発見され、中国を始めアジア地域で猛威を振るいました。その影響で一時は渡航制限の動きがあり、映画製作にも影響があったそうですね。
森岡:「アジアの風」の出品作17本に変更はなく、映画祭は特に影響を受けずに済みました。
〈新作パノラマ〉ではポン・ジュノ監督の話題作『殺人の追憶』をオーチャードホールで上映しました。「アジアの風」のメイン会場は渋谷ジョイシネマ(2009年閉館)ですが、話題作だからと暉峻さんが働きかけて大ホールで上映したら満杯になりました。最優秀アジア映画賞にも輝いて、アジア映画の躍進を決定づけました。
〈特集上映〉では、大衆的な人気作を集めた「中国新勢力」(人気女優シュー・ジンレイ〔徐静蕾〕の監督作『私とパパ』ほか3本上映)、「魅せられて前夜、ジュディ・オングの台湾映画時代」(1972年の台湾金馬獎で最優秀主演女優賞を受賞した『ニセのお嬢さん』ほか2本上映)などを開催しました。
————角川GPが宣言した「映画事業者の総結集」は、特別招待作品の強化に現れていますね。
森岡:前年の14本に対し、この年は22本と本数を増やしました。洋邦の配給会社に期待の新作を提供してもらい、映画界が一丸となって映画祭を盛りたてていく姿勢を鮮明に打ち出しました。
オープニング作には「日本ブランド」の充実を打ち出すべく『阿修羅のごとく』が選ばれました。主演の八千草薫、大竹しのぶ、黒木瞳、深津絵里、深田恭子が勢揃いして、晴れ着でレッド・カーペットを入場する姿は大変、華やかでした。クロージングでは、上映作『ファインディング・ニモ』のイメージに併せて青いカーペットをオーチャードホール前に敷いて、レセプションを開きました。
————ニッポン・シネマ・クラシックでは「麗しき乙女たち〜名女優たちの青春」という特集が組まれました。
森岡:麗しの女優のデビュー当時の作品を集めました。『銀座化粧』(香川京子)、『我が家は楽し』(岸惠子)、『祇園囃子』(若尾文子)、『不知火撿挍』(中村玉緒)などの6本です。実は、中村玉緒だけデビュー7年目の作品でしたが、勝新太郎と結婚するきっかけになった記念作として選ばせて頂きました。玉緒さんと香川京子さんはトークショーにもご参加下さり、興味深いお話を伺うことができました。「勝新太郎はすごいアイデアマンで尊敬していました」という玉緒さんの言葉が印象的でした。
——————新たな試みとして、携帯電話への動画配信やインフォメーション・ブースの設置、デイリー新聞の配布を行いました。
森岡:前年にカメラ付携帯が発売されて、携帯電話各社がいろんな可能性を試している時期でした。映画祭はNTTドコモと提携して109の前に携帯端末専用ブースを設置し、iモードによるチケットの取得方法やセレモニーの実況中継を携帯画面で見られることをアピールしました。
またボランティア・スタッフの活躍の場を拡充し、渋谷の駅前広場や東急百貨店にインフォメーション・ブースを設置し、上映作品その他の情報を速やかに提供できるようにしました。いま六本木ヒルズでは学生スタッフが大活躍していますが、そうした風景はこの年、渋谷で始まったのです。
——————オープニング・セレモニーでは、ソニーが開発した二足歩行ロボットQRIO(キュリオ)が開幕宣言をします。冨田勲さん(シンセサイザー奏者)とホリヒロシさん(人形舞)による「源氏物語幻想交響絵巻」を披露しました。
森岡:過去と未来を提示して、日本の豊かさをアピールする目的でした。残念ながらQRIOは2006年に開発中止になりますが、人類の手足となるコンピュータ技術の開発は連綿と続いており、近年では自動運転車の実用化が見えてきました。
冨田さんとホリさんのコラボは、2001年に比叡山で奉納演奏したのが始まりだと聞いています。この催しはお二人の代表作となり、その後も機会があるたび上演されているようですね。角川GPは、古典を大事にしてきた角川書店の出身です。だから過去の遺産に「源氏物語」を持ちだすのは、ご本人のキャリアに照らしても適切な選択でした。
演奏後の挨拶での冨田 勲さん(中央)
「日本映画・ある視点」が新設された第17回
————2004年は新札発行、2002年に帰国した拉致被害者のご家族の帰国、アテネ五輪と明るい話題がある一方で、イラクで日本人が殺害される悲惨な事件が起きています。映画祭は第17回を迎えました。
森岡:新札となり千円札が夏目漱石から野口英世に、5千円札が新渡戸稲造から樋口一葉に代わりました。1万円札の福沢諭吉と二千円札の紫式部はそのままでしたが、紫式部はなぜか近年見なくなりましたね(笑)。
この第17回で、映画祭は大きく生まれ変わりました。開催地に六本木ヒルズを加え、渋谷と六本木の2都市の開催が実現したのです。
————どのようにスケジュールを組んだのでしょう?
森岡:オープニング・セレモニーを六本木ヒルズ、クロージング・セレモニーを渋谷Bunkamuraで開催し、期間中はずっと両方の場所で映画の上映を行いました。第7回京都大会(1994)を唯一の例外として、映画祭は渋谷を拠点にしてきたので、六本木での開催は画期的な出来事でした。けやき坂に200メートルのレッド・カーペットを引いて、ゲストの入場を行いました。
六本木会場ではおなじみとなったメトロハットのエスカレーター上のロゴバナー(左)と渋谷の109シリンダーに貼られたクロージング作品『ターミナル』のポスター(右)
レッド・カーペットを歩くゲスト
————開催地が増えて、イベント数が激増しました。
森岡:使用できるスペースも多くなり、自主・共催・協賛・提携を含めて、上映会や催し物の数が倍増しました。第16回と比べても隔絶したイベント数であり、角川GPの「官民一体の産業振興」という言葉が、着実に成果を上げたのがこの年です。本大会の入場者数が延べ18万人と過去最高を記録したのも、こうした巨大化のおかげです。
————映画祭の来場者数は今では30万人前後というお話です。六本木単独開催となった今でもこうした来場者数を達成できるのは、角川GP時代に培ったノウハウがあるからなのでしょうね。
森岡:そうですね。渋谷と六本木の同時開催は第21回(2008)で終了しますが、第22回以降も来場者数を増やしてこられたのは、スタッフがノウハウを蓄えて活かせるようになったからでしょう。
—————同時開催で熱も入ったと思いますが、渋谷・六本木間は単線で結ばれておらず、電車でもバスでも乗り継がなければ往来できません。双方の会場に駆けつけたい時は大変だったのではありませんか?
森岡:地下鉄を乗り継げば 40分少々で両会場の往復は可能です。ただし手っ取り早く移動したければタクシーを使用せねばなりませんでした。六本木ヒルズは遠くからよく見えますが、周回するように道路が走っていて一直線に辿り着かない。急ぎの時はヤキモキしました(苦笑)。
————会期中の事務局の設営は如何されたのですか?
森岡:双方に本部を設置し、最初は六本木主体で、徐々に渋谷に人員を増やしていく構成にしました。Bunkamuraでは、ずっと地下のザ・ミュージアムを借りていましたが、今回から1階のBunkamuraギャラリーに設営しました。5年間、最後の3日は人員がひしめいて足の踏み場もないほどでした(笑)。
————この年、「日本映画・ある視点」が新設されましたね。
森岡:日本映画の新作は、かつて「シネマプリズム」で上映されてきましたが、「アジアの風」が新設されてからは、日本映画の上映スペースが減少し、コンペに入選しなければ賞レースに絡めない不遇の立場にあったのです。そこで新部門を設けて顕彰することになりました。作品部メンバーの合議で選定を行いました。
——————栄えある第1回受賞作は、瀧本智行監督の『樹の海』に決まります。
森岡:瀧本さんは井坂聡さんの下で助監督をされてきた方です。賞を獲ってから、比較的コンスタントに作品を撮り続けていますね。千野皓司監督13年ぶりの作品『THWAY 血の絆』は、ミャンマー(当時はビルマ)に従軍した父親がかの地で異母弟を生んでいたことを知り、娘が捜し歩く感動作です。現地ロケを敢行した3時間を超える大作でしたが、惜しくも受賞を逃しました。
————黒澤明賞もこの年からですね。
森岡:黒澤明賞は「日本ブランド」の象徴として、角川GPが発案されたものです。すでに功績のある映画監督でヒューマニズムに富む映画を撮っている方、黒澤明を尊敬している方に与える賞で、黒澤明文化振興財団との約束で第21回(2008)まで続けました。
受賞者名を挙げると、第17回は山田洋次とスティーブン・スピルバーグ、第18回はホウ・シャオシェン〔候孝賢〕、第19回はミロシュ・フォアマンと市川崑、第20回はデヴィッド・パットナム、第21回はニキータ・ミハルコフとチェン・カイコー〔陳凱歌〕でした。
クロージング・セレモニーでの顕彰が前提でしたが、スピルバーグは『宇宙戦争』(2005)の撮影で来日できなかったため、ビデオ・レターを寄せてくれました。次年、キャンペーンで来日した時にトロフィーを進呈しました。
————コンペの吉田佳代PDは2年の任期でこの回が最後になります。この第17回のプログラムで特徴的なのは、15本の選出作中3分の2をアジア地域の作品が占めていることです。日本映画3本、韓国映画2本、インドと台湾が各1本、他にアジア地域で製作された合作映画が3本並んでいます。
森岡:欧米の応募作に、あまり見るべき物がなかったのかもしれませんね。日本映画は、片岡K監督の『インストール』が早い段階で決まり、後に奥田瑛二監督『るにん』が選ばれますが、締め切り直前に森﨑東監督の『ニワトリはハダシだ』が完成して選出されました。
グランプリには、日本で滅多に観ることのできないウルグアイの作品『ウイスキー』が選ばれました。森﨑監督は最優秀芸術貢献賞を受賞されましたね。
————国際審査委員は山田洋次審査委員長(監督)のもと、イ・チャンドン(監督)、シェカール・カプール(監督)、佐々木史郎(プロデューサー)、ヴィルジニー・ルドワイヤン(女優)らが並んでいます。
森岡:山田洋次監督が日本人初の国際審査委員長に選出されました。イ・チャンドンさんは当時、韓国政府の文化観光庁長官を務めていました。ヴィルジニー・ルドワイヤンは、京都大会のときコンペに作品が選出されて、オリヴィエ・アサイヤス監督と共に来日しています(『冷たい水』・1994)。今年(2013)は、ベネチア国際映画祭の審査員にも名を連ねていました。
————「アジアの風」は新作の上映が23本、特集上映12本と大変充実していました。
森岡:コンペ15作に対してこの規模ですから、アジア映画の充実ぶりが伺えますね。アジア映画のハブとして作品強化に乗り出した結果です。
〈新作パノラマ〉には、ジョニー・トー〔杜琪峰〕監督の『ブレイキング・ニュース』(香港)や『初恋のきた道』の撮影監督、ホウ・ヨン〔侯咏〕の初監督作『ジャスミンの花開く』(中国)など、フレッシュな作品が集まりました。
〈特集上映〉では若干30歳の俊英、『大丈夫』で香港電影金像奨最優秀新人監督賞を受賞したばかりのパン・ホーチョン〔彭浩翔〕監督の全作上映を世界に先駆けて開催し、最新作『ビヨンド・アワ・ケン』のワールド・プレミアを行いました。
————オープニング・イブには、ようやく完成したウォン・カーワァイ〔王家衛〕監督の『2046』が特別上映されました。
森岡:これは東アジアの映画スターを結集させて作った作品ですが、製作期間が4年とも5年とも言われています。上映前の六本木ヒルズアリーナには出演した木村拓哉さんが駆けつけてくれました。スモークの中から木村さんが現れるとどよめきが沸き立ちました。
————ニッポン・シネマ・クラシックは「初姿〜日本映画の源流を求めて」と題して、シリーズ物や文芸物の最初の作品にスポットを当てて紹介しました。
森岡:『伊豆の踊子』は過去に6回映画化されていますが、1933年の五所平之助監督・田中絹代主演のサイレント映画が最初の作品になります。こうした、今となっては観る機会のない初物映画を上映しました。
————官民一体のイベントやシンポジウムも盛況でしたが、最も注目すべきはTIFFCOMの設立です。
森岡:TIFFCOMは、日本の映画、アニメ、ゲーム、CGなどすべてのコンテンツを網羅して、海外へ売り込むために開かれる一大ビジネス・マーケットです。映画祭期間中にいつも開催されています。
前年に「東京コンテンツマーケット」として始まり、この年TIFFCOMと改称されて、第20回(2007)のときに新設されたコ・フェスタ( JAPAN国際コンテンツフェスティバル )との連携のもとに今年で10周年を迎え、いまではすっかり東京国際映画祭のもうひとつの顔となりました。
ワンフロアにブースが置かれ開催されたTIFFCOM
————この回、賞金額がグランプリ10万米ドル、審査員特別賞2万米ドル、その他の副賞5千米ドルと変わりました。
森岡:第20回からはグランプリは5万ドルとなります。その後、金額の変更はなく今に続いています。
————初めて観客賞が設けられました。
森岡:コンペティション作の上映に来場された観客に投票用紙を渡し、最も良かった作品を選んでもらうのが観客賞です。これは港区との共催事業ですが、『大統領の理髪師』が観客賞と最優秀監督賞の2冠に輝きました。
観客賞トロフィーを受け取る『大統領の理髪師』イム・チャンサン監督
六本木オフィスの様子。実はこの画像の中に森岡さんのお姿が。
インタビュー構成 赤塚成人
今回のお話しの過去TIFF詳細はポスター画像をクリック!
(TIFFヒストリーサイトへリンクします)
←連載第1回へ
←連載第2回へ
←連載第3回へ
←連載第4回へ
←連載第5回へ
←番外編1(連載第6回)へ
←連載第7回へ
連載第9回へ→
連載第10回へ→
連載第11回へ→
番外編2(連載第12(最終)回)へ→
連載終了のご挨拶:森岡道夫→