東京国際映画祭事務局 作品チーム・アドバイザー 森岡道夫さんロングインタビュー
第5回 映画祭は何が起きるかわからない(第9回1996年から第11回1999年TIFF)
──アトランタ五輪に湧いた1996年、第9回映画祭が開催されます。この年から、インターナショナル&ヤングシネマ両コンペ部門と、「アジア秀作映画週間」は2回上映となりました。
森岡道夫(以下、森岡):この第9回と翌年の第10回だけ異例なのですが、インターナショナル部門の作品選定を私が担当しました。長らくヤングシネマ部門と「特別招待作品」を任されていましたが、2年間だけ3部門の選定をしたのです。
インターナショナル部門はもともと大手映画会社の出向社員が責任者となり、数年単位で交代する習わしでした。ところがこのときは適任者が見つからなくて、そこで作品部長としてやむなく職務を引き受けたのです。
第11回(1998)のときにコンペ部門は1本化されますから、その間だけの応急処置です。公式プログラムに3部門の巻頭言と作品解説を執筆しましたが、文体が単調になってはまずいので苦労しました(苦笑)。
──「特別招待作品」はともかく、インターナショナルとヤングシネマの両コンペ部門の作品選定をされたというのは、蛮勇とも言える振る舞いです。若い監督の作品の場合、観てよかった作品をどちらの部門に振り分けるのか苦労されたのではありませんか?
森岡:当然、両部門の差別化が必要になります。そこでヤングシネマについては、若手作家らしい視点を打ち出したロー・バジェットの作品に特化して選定しました。第9回の東京ゴールド賞を受賞したのは、アミール・カラクーロフ監督の『ラスト・ホリデイ』(カザフスタン)です。当時は貨幣価値の違いが大きかったから、カラクーロフ監督が生活費として持参したお金は滞日中の費用としては残念ながら不十分な額でした。映画祭では渡航費と朝食付き宿泊費を負担することが決まっていましたが、その他の費用は自己負担です。でも監督には、事務局用の仕出し弁当を差し上げたりして、ささやかな便宜を図ってあげた記憶があります。
インターナショナル部門では、カンヌで観て真っ先に声をかけた『コーリャ 愛のプラハ』(ヤン・スビエラーク監督/チェコ・イギリス・フランス合作)がグランプリを獲得しました。この作品は翌年アカデミー賞外国語映画賞に輝きましたね。
──第9回でも予期せぬ出来事が起きたそうですね?
森岡:まあ、映画祭というのは何か事件が起きるものですが、このときは開催2日前になって大変な事態に見舞われました。インターナショナル部門の審査委員長に決まっていた俳優のジャン=ルイ・トランティニャンが、急病で来日できなくなったのです。第8回では(クシシュトフ)キェシロフスキ監督が来日できなくなりましたが2週間前に知らせを受けて、対応するにも有余がありました。ところが今度は直前のアクシデントで、僅かな時間で後任を決める必要がありました。
──明後日から10日間スケジュールを空けて下さいとお願いして、良い返事をくれる人は多くないはずです。ましてや、忙しい映画人を対象とする場合には……。
森岡:連絡が入って慌てふためきました。まずは窮余の策で、ヤングシネマ部門の審査委員長に決定していたセルジュ・シルベルマン(プロデューサー/親日家として知られ、黒澤明監督『乱』や大島渚監督『マックス・モン・アムール』を手掛けた)に電話をかけました。「これからシャルル・ド・ゴール空港へ向かう」と言うシルベルマンに事情を伝え、急遽インターナショナル部門の審査委員長をお願いしたのです。よく出来た人で、「若い連中の作品が観たかったのになあ」と言いながら部門変更を即決してくれました。
──そうなると今度は、ヤングシネマ部門の審査委員長が不在になりますが?
森岡:時間というのは無慈悲なもので、フランスに連絡して了解をもらうだけで、1日経ってしまいました。明日には映画祭が開幕します。さてどうするか。 緊急会議を開いて協議した結果、ホウ・シャオシェン〔候孝賢〕監督に頼んでみようということになりました。
──ホウ監督が適任だと思われた理由はどんなところですか?
森岡:若くしてすでに大家であったことです。そして、幸いなことにホウ監督は「アジア秀作映画週間」に『好男好女』(台湾・日本)を出品していて、作品ゲストとして早目に来日していたのです。会議のあと、私と市山(尚三)さんと通訳の3人で宿泊先のキャピトル東急に駆けつけて深々と頭を下げました。するとホウ監督は、おもむろに横を向くと何か書き始めた。そして、「これだね」と言って書いた紙を示すと、ニヤリとしました。漢字で「指名代打」とありました(笑)。
──作風が大家だとしたら、その人柄はまさしく大人ですね!
森岡:もう、感動してホッとしましたよ(笑)。
──この年、国際審査委員を務めたのが、インターナショナル部門ではレベッカ・デモーネイ(女優・プロデューサー)、クリストファー・ハンプトン(脚本家/『つぐない』『危険なメソッド』等)、美術監督の西岡善信。またヤングシネマ部門では、プロデューサーのルース・ヴィタール、チンタラー・スカパット(女優)、セルゲイ・ホドロフ(監督・脚本家・プロデューサー)、映画評論家の河原畑寧ですね。
なかでも注目は、『青い凧』(第6回インターナショナル部門グランプリ受賞作)のティエン・チュアンチュアン〔田壮壮〕監督の参加です。第6回では騒動が起きてしまい、お互いに気まずさも残ったと思うのですが。
森岡:過去の騒ぎには拘泥せず受賞者として協力してほしいと声をかけたら、二つ返事で了解してくれました。第6回では私はヤングシネマ担当でしたから、言葉を交わすことはほとんどありませんでした。このとき会って話したらとてもいい人でびっくりしました。騒動には一言も触れずに、立派に審査委員を務めてくれました。
──それにしてもこの年の「アジア秀作映画週間」には、本当に多くの気鋭監督たちが新作を持って駆けつけてくれましたね。
森岡:ホウ監督以外にも、エドワード・ヤン〔楊徳昌〕監督(『カップルズ』・台湾)、モフセン・マフマルバフ監督(『パンと植木鉢』・イラン=フランス合作))、先程名前が出ましたが、ヤングシネマの国際審査委員を引き受けてくれたセルゲイ・ホドロフ監督(『コーカサスの虜』・カザフスタン)をはじめ、才能ある若手が来日しました。
彼らは東京がアジア映画に力を注いでいるのを知っていて、「アジアのなかの日本」を謳う映画祭に親近感を抱いていました。日本へ行かないと世界への展望はない。真剣にそう思ってくれたのです。これは第4回からアジア映画一筋に取り組んでくれた市山さんの功績だと思っています。
──「アジア秀作映画週間」の内部で、特集上映を企画したことも斬新でした。
森岡:イランのアボルファズル・ジャリリ監督とアメリカのコンラッド・ルークス監督の特集を組みました。それにヴィム・ヴェンダース監督が学生と撮った『ベルリンのリュミエール』を上映しました。この頃になると、「アジア」と銘打ちながらアメリカやドイツの作品も上映していた(笑)。こうした試みが翌年、「アジア秀作映画週間」を「シネマプリズム」へ発展させる萌芽となったのです。
──「ニッポン・シネマ・クラシック」では、どんな特集を組んだのでしょう?
森岡:エジソンのキネトスコープ(箱を覗いて映画を鑑賞する装置)が神戸でお披露目されたのは、1896年のことです。そこから100年という節目の年を記念して、滅多に観ることのできない作品をプログラムしました。日本が生んだハリウッド・スター早川雪洲が、妻の青木鶴子と共に主演したフランス映画『ラ・バタイユ』や、今となっては珍しい9.5ミリ・フィルムでしか残っていないサイレント映画(伊丹万作監督『國士無双』など3本・部分のみ)を35ミリにブローアップして上映しました。
また、成瀬巳喜男の『雪崩』『旅役者』、渋谷実のデビュー作『奥様に知らすべからず』を原版から復元して上映しました。自分たちがまず観たい。そんな一心も働いたのでしょうね。蓮實さんと山根さんも童心にかえって懸命に取り組んでくれました。
──「映画監督北野武」と題する特集上映も盛況を博しましたね。
森岡:これは映画生誕百年祭実行委員会の肝煎りで実現したレトロスペクティブです。『Kids Return』にいたる全作品を上映し、シンポジウムを開催しました。蓮實さん、山根さんは勿論のこと、日本映画に造詣の深い海外の批評家トニー・レインズとティエリー・ジュスも参加してくれました。
──第10回映画祭が開催された1997年には、在ペルー日本大使公邸人質事件と神戸連続児童殺傷事件が起きています。この年、消費税が5%に上がり、サッカーのW杯に日本が初進出しました。世界史的には、香港が中国に返還され、ダイアナ妃とマザー・テレサが亡くなった年です。
森岡:皮肉なことに、あっと驚く事件が起きる年に限って、映画祭はアニバーサリー・イヤーを迎えます。この年は第10回開催という節目を記念して、それにふさわしいプログラムを組もうと努力しました。オープニング作を2本上映して大いに盛り上がりました。
──目玉は何と言っても、『タイタニック』のワールド・プレミアですね。
森岡:開催2か月前の夜中、20世紀フォックスに招かれて東宝撮影所でラッシュ・フィルムを観ました。このときは、私と当時の事務局長の堀江利行さんの2人だけです。まだ編集中ですから1巻ずつ映写し、長い時間かかって最後まで観賞しました。20世紀フォックス宣伝部の古澤利夫さんの話では、ジェームズ・キャメロンの右腕なる人が、アメリカからプリントを抱えてやってきてくれた。そして、僕らのためにラッシュをかけてくれたのです。一も二もなく上映を決めて、それからはトントン拍子に話が進みました。
──もう1本のオープニング作品は、ウォルフガング・ペーターゼン監督、ハリソン・フォード主演の『エアフォース・ワン』でした。
森岡:2本とも大作で、監督と主演のハリウッド・スターが揃って駆けつけるという華やかさでした。両方ともオーチャードホールで上映することに決まり、タイムテーブルを調整しました。当日は、まず12時40分に開催宣言と通常のオープニングセレモニーを行い、『エアフォース・ワン』を上映しました。そして観客を入れ替えて17時半に国際審査委員の紹介と映画祭の概要を説明した後、『タイタニック』を上映しました。
ゲストも豪華!ハリソン・フォードさん(左)、レオナルド・ディカプリオさん(中央)、ジェームズ・キャメロン監督(右)
──会場周辺の警備もさぞ大変だったでしょうね?
森岡:Bunkamura周辺は、ハリソン・フォードや、人気絶頂のレオナルド・ディカプリオ見たさに1週間前から場所取りが始まり、当日は東急百貨店の方まで大混雑しました。警備スタッフ以外に警官も動員され、ダフ屋や偽造チケットの販売に対処しました。
──祖父が日本人唯一のタイタニック号の乗客ということで、細野晴臣さんが会場に招かれていました。
森岡:文字通りのワールド・プレミアですから、東南アジアなど海外からもたくさんの人が観に来てくれました。キャメロンもディカプリオも、もちろん上映を観ていましたよ。ディカプリオをどうやって入退場させるかが悩みの種で、運営担当者の話では、舞台挨拶が終わって上映が始まる際、暗転に紛れて場内中央の席に案内したそうです。
──オープニングのみならず、クロージングでも苦労があったそうですね。
森岡:『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(ジャン=ジャック・アノー監督)の上映に、中国政府が抗議を申し入れてきました。劇中にダライ・ラマが登場することを問題視したのです。でもこれはアメリカ映画ですからね(笑)。徳間(康快)さんも初志を貫徹すべきだと話していたので、「作品本意・政治不介入」の原則に則って上映しました。
──この年、「アジア秀作映画週間」を刷新し「シネマプリズム」が創設されます。現在、「アジアの風」として知られている部門の前身がこの「シネマプリズム」で、第14回(2001)まで続きます。
森岡:注目すべき世界の作品を紹介するという趣旨で、話題作や旧作を含むあらゆるフィルムに選考対象を広げました。自主企画での上映は34本。
マリ共和国のシェイク・ウマール・シソコ監督の作品(『ニヤマントン』『フィンザン』『独裁者ギンバ』)をはじめ、ツァイ・ミンリャン(『河』・台湾)、アッパス・キアロスタミ(『桜桃の味』・イラン)といった新進気鋭どころから、キン・フー(『山中傳奇』・台湾)、ストローブ=ユイレ(『今日から明日へ』『ロートリンゲン!』)、ユーセフ・シャヒーン(『アデュー・ボナパルト』『カイロ』)などの大家、日本映画では北野武(『HANA-BI』)や青山真治(『冷たい血』)まで一気に上映しました。これはもう市山さんの独壇場ですね(笑)。それに協賛企画として映画作家によるビデオ作品の上映を行いました。
──アジア映画賞もこの年からスタートしました。
森岡:第1回アジア映画賞は賛否両論あるなか、チャン・ソヌ〔張善宇〕監督の『バッド・ムービー』(韓国)が受賞しました。ソヌ監督はいま映画づくりから遠ざかっているようですが、ぜひ新作を撮ってほしいですね。
──「ニッポン・シネマ・クラシック」は今回まで、蓮實重彦さんと山根貞男さんがプログラミングされたのですよね?
森岡:幻の作品を蘇らせるというコンセプトも一緒です。この年はロシアの国立映画保存所、ゴスフィルモフォンドから里帰りした日本映画を上映しました。戦時中、日本が中国領土の一部を支配していた時代に、日本映画もたくさん大陸に渡りました。それらのフィルムは戦後ロシアに接収されますが、中には火災などで消失し、日本国内に現存しない作品も含まれていることがわかったのです。バラバラに保管されていたリールを、日本人の技術者が現地に赴いてムビオラで観ながら整理しました。そうして、傾向映画の傑作『何が彼女をそうさせたか』(鈴木重吉監督)を復元し、東京都交響楽団による生演奏つきで上映しました。
──インターナショナル・コンペ部門のグランプリに2本の作品が選ばれました。四半世紀を誇る東京国際映画祭の歴史で唯一のことです。
森岡:アデミル・ケノヴィッチ監督の『パーフェクト・サークル』(ボスニア=ヘルツェゴビナ・フランス合作)と、カロリーヌ・リンク監督の『ビヨンド・サイレンス』(ドイツ)がグランプリをW受賞しました。2本揃って翌年のアカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたことも、選定した私にすれば快挙でした。
賞で印象に残っているのは、『CURE キュア』(日本)の役所広司さん(俳優)が、日本人2人目となる最優秀主演男優賞に輝いたこと。それと『世界の始まりへの旅』(ポルトガル・フランス)を携えて、3度目の来日を果たしたマノエル・ド・オリヴェイラ監督が特別功労賞を受賞されたことです。オリヴェイラ監督は89歳とすでに高齢でしたから、滞在中は会場近くの宿を特別にご用意しました。有馬さんという石油販売会社の社長が経営するアリマックスホテルです。毎日、瀟洒な部屋にお迎えに上がりましたよ(笑)。残念なことにホテルは2008年をもって閉館しました。
『CURE キュア』黒沢清監督と役所広司さん(左)、マノエル・ド・オリヴェイラ監督(右)
──第11回の1998年は、大手金融機関の再編が進んだ年でした。トピックとしては長野五輪開催、松坂大輔メジャー・デビュー、それに和歌山毒物カレー事件が起きています。映画界は悲報に明け暮れた1年で、第11回映画祭が開催される前に黒澤明監督が逝去し、終了後間もなく映画評論家の淀川長治さんが、年末には木下恵介監督がお亡くなりになりました。
森岡:9月6日に黒澤さんが亡くなって、すぐに追悼上映を企画しました。前年、三船敏郎(俳優)が亡くなっており、日本映画を代表する監督&主演コンビの相次ぐ喪失は世界に大きな衝撃を与えました。訃報をうけ、開催中のモントリオール映画祭では、緊急記者会見を開いて弔意を表明しました。
そして、『羅生門』でグランプリを、『七人の侍』で金獅子賞を受賞したベネチア映画祭では、コンペ会場に訃報が告げられるや来場者全員が起立して3分間の拍手をおくったのです。日本でも何かしなければ……。そこで「ニッポン・シネマ・クラシック」の企画内容を変更して、全作品の追悼上映に振り替えたのです。
──10月31日が開幕初日でしたから、残り2か月を切った時点での仕切り直しですね。
森岡:直前まで権利問題の交渉やプリントの調達にかかりきりでしたが、皆さん大変協力的で、全30作を無事上映できる運びになりました。でも、またしても予期せぬ出来事が起こります。
仕事を終えて仲間と一杯飲んでいると、緊急呼び出しがかかりました。その夜、渋谷東宝で『赤ひげ』を上映していたら、劇中で死んだ人間がまたぞろ出てきた。つまり、フィルムの6巻と7巻を前後してかけてしまったのです。フィルム缶に貼付された缶票と実際に入っていたフィルムが入れ替わってしまっていたのです。完全なチェックミスでこんなとき、間違った巻だけ入れ換えて上映できればよいのですが、映写システム上すぐにはそれができない。上映を中止せざるを得なくなりました。
──鋭気を養うためのお酒もこれでは台無しですね。
森岡:急いで劇場に駆けつけると、劇場支配人が壇上からお詫びしているところでした。振替上映の日取りを決めて来場者に無料入場券を配った後は、青葉台の黒澤プロへお詫びに行きました。まったく映画祭は何が起きるかわからない。これ以降はチェック体制に万全を期し、事前の確認をより気をつけるようになりました。
──この年から、インターナショナル部門とヤングシネマ部門が1本化されて、今に続く「コンペティション」に統一されました。
森岡:実は2~3年前から、事務局では1本化に向けた話し合いを続けてきました。最終的には、「長編コンペ部門が2本ある国際映画祭は他にない」「世代交代が進んで新人監督が続々とデビューしている」ことから、別枠を設ける必要がなくなった──というのが主な理由です。そのうえで当時の経済情勢を鑑みた結果、一本化の実現に踏み切りました。
──コンペの一本化に伴い、賞の変更はありましたか?
森岡:東京グランプリ、審査員特別賞、最優秀監督賞、最優秀女優賞、最優秀男優賞、最優秀芸術貢献賞に、トロフィと賞状が贈られることに変わりはありません。従来のヤングシネマの精神を引き継ぎ、長編3本以内の監督を対象にした新たな審査制度を設けこれに賞金を授与することにしました。東京ゴールド賞1000万円、東京シルバー賞500万円です。第4回に設けた東京ブロンズ賞は廃止されました。
──受賞結果は、東京グランプリがアレハンドロ・アメナーバル監督『オープン・ユア・アイズ』(スペイン)、東京ゴールド賞がイ・グァンモ〔李光膜〕監督『故郷の春』(韓国)、東京シルバー賞がヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督『カサバ─町』(トルコ)となっています。
森岡:『オープン・ユア・アイズ』はサンダンス映画祭で観て気に入って、声を掛けた作品です。賞金を射止めた『故郷の春』にはちょっとしたウラ話があります。最初カンヌで観たとき、韓国映画では『八月のクリスマス』に惚れ込んで、ぜひ東京に招聘しようと思いました。そうしたら先約がいて、九州のアジアンフォーカス・福岡映画祭への出品が決まっていたのです。
そこで『故郷の春』を招聘したら、これがなんと東京ゴールド賞に決まり、安堵の胸を撫で下ろしました。『八月のクリスマス』のホ・ジノ監督とは、その後会ったときにこの話をしたら笑い話になりました。
TIFFは、日本では国際映画製作者連盟公認の唯一の映画祭ですが、日本には他にも映画祭と名がつくものがたくさんあります。だからこんなふうに、作品の取り合いが起こることもあるのです(笑)。
──第2回を迎える「シネマプリズム」は、自主企画の上映が24本と少し減りましたが、協賛企画のビデオ上映を含めると、前回同様70本以上の作品を上映しました。
森岡:新部門となりフレキシブルな選定ができる分、多くの国の優秀作が目に留まり市山さんはジレンマに陥ったみたいです(笑)。このときは、中近東や中央アジアのレベルの高い作品が集まりました。オープニングがスタンリー・クワン監督『ホールド・ユー・タイト』(香港)、クロージングがモフセン・マフマルバフ監督『沈黙』(イラン)で、マフマルバフは娘のサミラ・マフマルバフ監督が『りんご』(イラン・フランス合作)をコンペに出品していたので、親子で作品が上映されることになりました。
特集上映では、マニラトナム、アレクセイ・ゲルマン、エリック・ロメールの3監督の作品を集めてやりました。
──アジア映画賞は、前年、特集上映を組んだアボルファズル・ジャリリ監督が受賞されました。
森岡:イランの政権が変わって、ようやく海外での上映が解禁された『ダンス・オブ・ダスト』という作品です。その他に黒沢清監督の『ニンゲン合格』と、今はアクタン・アリム・クバトと改名したアクタン・アブディカリコフ監督の『あの娘と自転車に乗って』(キルギスタン・フランス合作)の2本が、スペシャルメンションとして表彰されました。
第10回(1997)のヤングシネマコンペティション審査委員アキ・カウリスマキ監督(上段左)、女優の栗原小巻さん(上段中央)、映画評論家のマックス・テシエさん(下段左)、審査委員長を務めたユーセフ・シャヒーン監督(下段中央)と森岡さん(右)
取材 東京国際映画祭事務局宣伝広報制作チーム
インタビュー構成 赤塚成人
今回のお話しの過去TIFF詳細はポスター画像をクリック!
(TIFFヒストリーサイトへリンクします)
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