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2013.11.11
[イベントレポート]
特別上映「日本アニメーションの先駆者(パイオニア)たち〜デジタル復元された名作」(映文連創立60周年記念)-10/19(土)山村浩二さんトーク

 
10/19(土)特別上映『日本アニメーションの先駆者(パイオニア)たち〜デジタル復元された名作
 
登壇者:山村浩二(アニメーション監督)
 
上映作品:政岡憲三監督『くもとちゅうりっぷ』(1943)、大藤信郎監督『くじら』(1953)『幽霊船』(1956) *各デジタル復元版
*大藤信郎監督『のろまな爺』(1924)『竹取物語』(1961)、山村浩二監督監修版『竹取物語』(2010)を同時上映
 
映像文化製作者連盟の創立60周年を記念して、日本アニメーション史に偉大な足跡を残した政岡憲三監督(1898-1988)と大藤信郎監督(1900-1961)の傑作が、デジタル復元されて上映された。これに伴い、大藤の未完の遺作『竹取物語』の素材を用いて、映像化した実績をもつ山村浩二さんにご登壇いただき、復元の成果と2人の功績について語っていただいた。
折しも今年7月、神戸映画資料館の尽力で、『竹取物語』のテスト・フィルムと初期の傑作『のろまな爺』のフィルムが発掘されたばかりであり、各編のニュー・プリント版も披露され、山村さんの監修版と併せて2編の『竹取物語』が観賞できる貴重な上映会となった。
以下、上映の合間になされたトークの模様を採録してお届けします。
日本アニメーションの先駆者たち

©2013 TIFF
登壇した山村浩二さん

 
デジタル復元された3作品について
修復して、ここまで綺麗になるとは驚きです。ほんとに感謝したい気持ちです。政岡憲三と大藤信郎は年齢も2歳しか違いません。ほぼ同時代に製作を続け、近代化する日本アニメーションの土台を築いた大監督です。フィルムが修復され、同時に上映されるのは素晴らしいことです。
政岡憲三の『くもとちゅうりっぷ』は、全編セルで作られた最初の日本アニメです。映像は白黒ですが、微妙な色調を出すためにカラーで製作されました。今回の修復で、マルチプレーン・カメラに重ねた素材のエッジの影まで鮮明に見えて、どんな素材を用いているか想像できるほど鮮明になりました。
背景素材には写真を多用し、フォーカスでボカしているのが明らかです。絵で描いた部分と、写真の部分に明確に分かれている。三日月が出て、てんとう虫の頭に月光の照り返しが映える場面など、艶やかでいいですよね(笑)
修復前のフィルムは傷だらけで、どの辺から雨が降るのかよくわかりませんでした。落ち葉がクモの巣に絡まり、風が吹くあたりで、小雨が降り始めたと思っていたのです。ところが修復版を見ると、その後からドバッと降りだすのがわかります。いくらソフトウエアに通じた専門家でも、ひとつひとつ細かい傷を修復するのは、さぞ大変だったろうと思います。
翌朝、晴れてアブが登場する場面では、人影らしきものが映り込んでいてドキッとしました。人影というより、男女が手をつないでいるような絵です。もしかすると、背景の写真素材に何か転写されてしまい、そのまま使われた可能性があります。元の素材に入っていたのか、プリントに転写されたのかは謎ですね。修復前のフィルムはぼやけてるので気づきませんでした。
大藤信郎の『幽霊船』のエンド・マークのがたつきは、おそらく撮影ミスだと思われます(笑)。エンドのズームは綺麗に撮れてますが、背景のセルの前にかぶせた素材が少しずれてしまっている。フィルムのエッジで映ってないと思われていた箇所が、修復によってクリアになりバレてしまった。われわれは興味深く見てしまいますが、監督としてはミスを補ってほしい場面だったのではと思いました。
日本アニメーションの先駆者たち

©1943 松竹株式会社/©(公社)映像文化製作者連盟
今回上映された3作品。左から政岡憲三監督『くもとちゅうりっぷ』、大藤信郎監督『くじら』『幽霊船』

 
新発掘された『のろまな爺』と『竹取物語』
大藤は自身でも「前衛」と評してますが、『のろまな爺』を観れば明らかなように、もう最初から前衛映画です(笑)。ずっと個人で映画を作ってきた自由人でした。最初に作ったスタジオも、「自由映画研究所」と名付けていたくらいです。
2010年にフィルムセンターで大藤信郎展を開催したとき、僕は『竹取物語』を自分なりに復元させたことがあります。大藤の没後しばらくして、長姉の八重が大量のセルをフィルムセンターに寄贈しました。生誕110年の節目に、それがどんなかたちで映像になったのかを推測して、撮影する作業を任されたのです。つい3年前のことですが、大藤が撮影したフィルムは存在しないと言われていました。だから、想像でやるしかありませんでした。
キャラクターの着物などは、千代紙を切り抜いてセルに1枚ずつ貼ってあるものが残っていて、かなり状態のいいものもあれば、剥がれたりずれたりしているものもありました。小さなセロテープで留めてあり、剥がれたものは位置を推測して、糊跡を合わせて貼りつけてからスキャンしました。セルを3枚ほど重ねてリピートする部分や後から貼る部分もあるのですが、その重ね方も大藤は独特で、独自のやり方でセルにナンバリングを施しています。最初は意味がわからなかったのですが、記号順に多分こうであろうという箇所で重ねてみました。
このたび、大藤のテスト・フィルムが新たに発掘されて、どんなものかと戦々恐々でしたが、僕が撮った復元版と合致している部分が多く、「ああ、よかった」と思いました。(場内から拍手が沸き起こる)
タイトル・バックの千代紙が扇状になっているのも、実は本当にタイトルに使ったのかわからなかったんです。細かい経緯は忘れましたが、多分そうだろうと推測しました。大きく真ん中で動かしたのも独自に動きをつけてみたのですが、そこも合ってましたね。それ以外の部分では、背景のセルが見つからなかったので印象は異なりますが、動きのリピートとか素材の重ね方はそれほど間違っていなかったと思います。
大藤の場合、個人で作っているからタイムシートがないんです。絵コンテも残ってないから、カット割りがよくわからない。残されたシナリオを読んで、おおよその見当をつけましたが、シナリオもかなりアバウトな内容で、細かいカットの照合ができないから、残されたセルを見ながら想像力を働かせるしかありませんでした。大藤のリピートは独特で、何回リピートするのかも、自分で判断するしかなかったのです(笑)
僕が預かった素材以外にも、フィルムセンターには『竹取物語』の素材がたくさん残っていますが、セルがボロボロ粉になって落ちてしまう素材だったりして、持ち運べないものもあります。千代紙もかなり剥がれ落ちていて、どのセルと対応しているかわからなかったりする。もう少し探せば、もっと復元できる場面も出てくるでしょうが、2010年の作業では、状態のよいセルだけを使いました。根を詰めて探せば、そのうち背景画も見つかるかもしれませんね。
日本アニメーションの先駆者たち

協力 神戸映画資料館
左から『のろまな爺』、『竹取物語』

 
政岡憲三と大藤信郎の共通点と相違点
大藤信郎は僕が生まれる前の1961年に亡くなり、政岡憲三も存命中に会う機会はありませんでした。だから、僕は生前の2人を知りません。
いろんな方の証言や残された資料をもとに整理すると、大藤は8人兄弟の7番目に生まれ、本名は大藤信七郎。母親を幼い頃に亡くし、八重に世話してもらいながら大きくなります。実家が蓄音機の録音スタジオをやっていたので、最初からモノを作る環境に恵まれていました。
政岡憲三は祖父が不動産事業で成功を収め、家に莫大な資産がありました。だからアニメーションのスタジオを作って、生涯自分が熱中できることに捧げることができたのです。
2人は1930年代に松竹で、3本の映画を共同製作しています。『西遊記』『三羽の蝶』(共に1934)、『奴の凧平 お供は強いね』(1939)です。その後は別々の道を歩み、作風も製作スタイルも対照的な方向に向かいました。
大藤は戦前、千代紙を切り抜いて作った絵柄をウリにして、おおらかな漫画映画を作っていました。しかし戦後は影絵アニメーションに転じ、『くじら』『幽霊船』の2本で独自の様式化を図ります。内容的にも、ペシミスティックでエロチックな要素が盛り込まれ、人間のエゴや暗い部分を描こうとしています。そのせいか、戦前の子ども向け作品とはまるで違う印象を受けます。
一方、政岡憲三は写実を重視しました。よく見て動きを写し取る。現実のものを見て捉える姿勢が明確です。政岡の絵はどれも明るくて暗さがありません。戦時中の作品を観ても、ユーモアとかわいらしさに満ちている。子どもが楽しめるアニメーションの基礎を作ったのは政岡です。
大藤は最後まで個人映画社を貫きます。八重がスタジオの運営を手伝っていましたが、素材描きから脚本・撮影・演出と製作面をマルチにひとりでこなし、おまけに配給まで関わっていました。今の個人スタジオの走りです。
政岡はプロダクション方式を採用し、大人数での作品づくりにチャレンジします。『くもとちゅうりっぷ』に関わったアニメーターの総数は569人とか(笑)。本当にビッグ・プロダクションですよね。絵柄も技量も違う多くの才能を集めて、ひとつの完成形、一貫したトーンの映画を作り上げた。政岡には集団のボスとしての才能もあったわけで、ここが凄く対照的なところだと思います。
 
盟友からライバルになった2人
政岡憲三は日本で最初にセルを導入し、一般化しました。これは大きな功績です。「日本アニメーションの父」と言われる由縁です。
でも、国際的に知られた最初のアニメーション作家は大藤信郎でした。『くじら』『幽霊船』以前にも、過去の短編がソ連やフランスに売れた実績があります。大藤は海外とのつながりが最初にあったアニメ作家です。
大藤にとって不幸だったのは、1960年代には久里洋二とか個人アニメーション作家の時代がやってきますが、そうした商業的な波に乗る前に死んでしまったことです。今思えば、自分の作品を前衛的と言ったのも、ちょっと悲観的な感じがしなくもない。どこかで自分は理解されないと感じていたのかもしれません。
大藤は、政岡をはじめとする同業者へのライバル心が強い人でした。『くじら』がカンヌの短編部門で紹介され、『幽霊船』がヴェネチアで特別奨励賞を受賞し、日本のアニメーション作家として、ヨーロッパでいち早く評価されたのです。そんな経緯もあって、1960年に国際アニメーションフィルム協会(ASIFA)が設立されると、協会から大藤に日本のアニメーションの状況を教えてほしいと手紙が届きます。大藤は英文で返信を書きますが、ライバル心を剥き出しにして、他の連中はひどいと記しています(笑)。
大藤は戦前からずっと独立独歩で生計を立ててきました。この間、ディズニーをはじめとするトーキーの漫画映画が輸入され、政岡が産業的な部分で革新をもたらし、戦後に東映動画が設立されるというふうに、アニメーションの歴史は大きく変化していきます。1958年には、日本初の劇場長編カラーアニメ映画が作られ、国内初のテレビアニメ作品が放映されます。大藤には、変わりゆく漫画文化に対する焦りがありました。そこで、もう一度精魂を注いで、長編映画に挑戦しよう考えたのです。
 
大藤信郎の集大成『ガリバー旅行記』
晩年、大藤は『竹取物語』『ガリバー旅行記』(1961)の2本を長編として企画しますが、いずれも彼の死によって未完に終わります。大藤はこの2大長編を作り上げて、自己の集大成にするつもりでした。
『くじら』『幽霊船』で、色セロファンを使った独自のスタイルを完成させますが、『竹取物語』では戦前の千代紙映画に回帰しています。シナリオを読んでも、おおらかな漫画映画を目指していたのは明らかであり、当時の歌謡曲の替え歌などパロディをやろうとしていた。ある種、『のろまな爺』と似たようなユーモアと、バカバカしさのある作品を構想していました。原点回帰して、もう一度自分の力を試したかったんだと思います。
機会があれば、『竹取物語』に続いて、『ガリバー旅行記』もぜひ復元してほしいですね。スイフトの原作ではガリバーが日本に来る話がありますが、大藤はこの場面を中心に映画を作ろうとしていました。ちょんまげを結った戦前の大藤漫画のキャラクターに、影絵の八頭身のガリバーが絡む。技法的にも、キャリアの初期に作っていた千代紙映画と影絵アニメーションが混ざりあい、『竹取物語』以上に大藤の真価が見える作品になったのではないか。素材を見ただけでも、かなり期待できる作品だと思います。
フィルムセンターには今後も、貴重なアニメの復元に尽力していただけたらうれしいです。ありがとうございました!
 
◆12/8(日)13時より日仏会館ホールにて『くじら』『幽霊船』デジタル復元版の再映あり。映像文化製作者連盟の下記ホームページでご確認ください。
http://www.eibunren.or.jp/award2013/lineup/lineup3.html
◆2014年2月フィルムセンターにて、『くもとちゅうりっぷ』『くじら』『幽霊船』の3本を上映予定です。
 
特別上映『日本アニメーションの先駆者(パイオニア)たち〜デジタル復元された名作

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第25回 東京国際映画祭(2012年度)