10/24(木)コンペティション『歌う女たち』の上映後、レハ・エルデム監督が登壇しQ&Aが行われました。
矢田部PD:初めの発想として、歌う女たちがいたのか、それとも島にカタストロフィーが起こる、だったのか。どこがこの作品を作り始めるポイントだったのでしょうか?
レハ・エルデム監督:そもそもこれは全て存在するものでした。ひとつの限られた空間の中で、ひとつの脅威が起こる。その脅威の中にあって、島で起こっているのですが、その脅威のひとつは、自然から来るものであり、もうひとつは人間によって惹起されるものです。その中で、人々は自分の内面の中の葛藤をどのように外に突き出しているかということです。そして、お互いを傷付けあって、叩きのめしてしまっている、登場人物の一人一人のフィギアがあります。例えばその中の、アデムという男性。彼は自分の道を見つけていきます。変化していくのです。そのように変化していくことができる人間に対しての、私からの賞賛だということです。
Q:このドラマの中の女性たちは歌うわけですが、何のために彼女たちは歌うのでしょうか?つまりこの映画のテーマというのが、どのように浸透しているのかお聞きしたいです。
レハ・エルデム監督:人が歌を歌うということ、これは人にとって最も素晴らしい、素敵な状態だと私は思います。しかもそれを一緒に歌えるということ、これは人々と共にあるということの最も素晴らしい形であり、最も崇高な高いところにあることだと思います。そして、あらゆることがあるにも関わらず、例えば、死ということを知っている存在として、あらゆる衝突がある、一方的な愛、嫉妬、あるいは傷つけ、身体に傷を負って、実際に傷跡もできている。このような状態にも関わらず、歌を歌えること、これがとても崇高な高いものだということです。
Q:目に見える形で滅亡していく象徴に、馬がどんどん衰弱して死んでいくというシーンがありましたが、馬を選んだことに意味があるのでしょうか?
レハ・エルデム監督:この映画は、現実性ということとは関係がない作品なのですが、ひとつの現実的な要素が馬なのです。問題となっている島ですが、この島には馬がいて森がある。この島では馬が運輸の媒体となっているからなのです。我々が島に行くとまず目に入るのは、馬がいることなのです。
矢田部PD:馬が死ぬのは、人間の代わりに死んでくれているという、ちょっとエコロジー的な側面もあるのかなと、私は解釈したのですが、そのような点はいかがでしょうか。
レハ・エルデム監督:馬が死んでいくというのは、人間のせいで死んでしまうということなのです。というのは、人間というのは、人に対してひどい態度を取り始めると、それは何に対してであろうとします。それが人であろうが、動物であろうが、子供であろうが、父親であろうが、あるいは「愛」なるものであろうが、何に対しても。ですので、ここで馬が亡くなっていくというのは、馬たちが私たちの行っていることの状態の、私たちが陥っている状態の、犠牲者になっているということを表しています。
Q:女性が力強くて美しいのに対して、男性がちょっと情けなくてひどい感じが出てきたのですが、それは監督の思われたことなのか、それともトルコはそういうものなのでしょうか?
レハ・エルデム監督:それは私が普段から見たところ、そう見えるということです。世の中、一般的なことではないでしょうか。トルコから見てもそうですし、世界全体から見てもそうではないかと思うのです。この中では、映画における男性、そして女性なのですが、生きることにおいては彼らの様子、男性達の様子、彼らは病気である、女性達はそれで許させてしまうのですが、その一方で女性達というのは、より希望を与えてくれるもの、彼女達が行く道というのはもっと明るさに満ち足りている。しかし、その女性達も、私達の女性達です。なので、私達の状況に対する、彼女達は慰めなのです。
矢田部:最後に監督から一言お願いします。
レハ・エルデム監督:上映を鑑賞してくださってありがとうございました。約13年前から東京のこの映画祭に参加させていただいておりますが、20回くらいこのように登壇したと思います。そのたびに通訳の人が、ころころ変わる表現を上手く訳して伝えてくださるので、とても感謝しています。
コンペティション
『歌う女たち』