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2013.10.28
[イベントレポート]
「母と娘では異なる人生が待っていますが、母にも理由はあるのです」-10/21(月)アジアの未来『空っぽの家』:Q&A

空っぽの家

©2013 TIFF

 
アジアの未来部門『空っぽの家』:Q&A
 
母・ヌルジャンと3人の子ども(長女フェリデ、長男イルケル、次女オズゲ)の重苦しい関係を描いた物語。夫に先立たれ計りしれない喪失を抱える母と、重圧に耐えられなくなる長女をメインに、家族であることのしがらみを描く。トルコの新鋭アクチャイ監督が家族成員の造型に手腕を発揮し、その関係性を繊細に綴った作品で、イスタンブール国際映画祭で初監督作品賞と観客賞をW受賞した。
 
登壇者:デニズ・アクチャイ監督
 
 
———石坂PD:監督、ようこそ東京にお越しくださいました。
 
デニズ・アクチャイ監督(以下、アクチャイ監督):ご覧いただきありがとうございます。映画について語るのは難しいけど、皆さんと時間を共有できることにワクワクしています。
 
———石坂PD:この作品には監督の実体験が反映されているそうですね?
 
アクチャイ監督:ここに描かれたすべてのことが、実体験に基づいているわけではありません。でも私もこの物語のように家族の一員をなくし、心にぽっかり穴が開いてしまった経験があります。トルコで喪に服すことがどういうことで、喪失をどう乗り越えるべきなのかよく分かっています。エピソードのいくつかは、同じような境遇の友人から聞いたものであり、いろんな挿話を盛り込んでストーリーを構成しました。
 
――映画はとてもよかったのですが、母親のヌルジャンが強烈で嫌悪感を抱いてしまいました。僕がこの家にいたら、逃げ出したに違いありません(笑)。脚本を書いている間、監督はこの母親にどんなことを思いましたか?
 
アクチャイ監督:最初に断っておきますが、私の母は人々に嫌悪を抱かせるような人間ではありません(笑)。トルコ映画では聖女のように母を描くことが多いのですが、母親といえどもただの人間ですから、試練にさらされて一杯いっぱいになってしまうこともある。そうした生身の女性を描きたいと思ったのです。
私もヌルジャンを認めませんが、理解することはできます。専業主婦で夫に頼って生きてきた彼女にとって、家の中に大黒柱が亡くなってしまうのは計りしれない喪失です。女性が3人いても頼れる男性がいないと、いつも不安でしかたないのです。
 
――英語タイトルは「Nobody’s Home(ノーバディーズ・ホーム)」です。家に誰もいないという意味で、トルコ語の原題「Köksüz(コックス)」とは意味が異なりますが…。
 
アクチャイ監督:原題は「根なし」という意味ですが、英語の「rootless」では意図とかけ離れてしまうため変更しました。誰もがこの家から逃げ出したいと思っている。そういう意味では合っていると思ったのです。
 
――娘の婚約者の男性は好感の持てる人物ですが、ヌルジャンは彼を疎んじています。どんな複雑な感情があるのでしょう?
 
アクチャイ監督:この映画はトルコの西側を舞台にしています。西側は共和人民党(中道左派)の支持者が多く、より開かれた思想をもっている人々が多いと言われています。娘の婚約者は東側の出身で、野党である公正発展党(中道右派)の支持者が多いことから、ヌルジャンは自分のほうが開かれていると思い込んでいるのです。母親の方が開かれていないのは見てのとおりです。夫の代わりに、長女フェリデが大黒柱の役割を果たしていることもあり、このまま家に留めておきたい。婚約者に渡したくない気持ちも働いています。
 
――なぜ、こんなに破滅的で悲しい題材を選んだのでしょう?
 
アクチャイ監督:16歳で父を亡くしたことが大きく影響しています。それから母を含めて4人で暮らしてきましたが、開かれているはずの西トルコであっても、大黒柱となる夫がいなければどんな困難を抱えるのか、またそんな苦境でさえ、女性は自立して生きていけることを描きたかったのです。
空っぽの家

©2013 TIFF

 
――トルコ社会が直面している問題を描いたと考えて、宜しいのでしょうか?
 
アクチャイ監督:社会というよりも家族の問題です。父親が亡くなると生きていくのは困難となり、家族の間に沈黙が生まれ、諍いが絶えなくなってしまう。
たとえば母と娘が残された場合、母親はどこかで女としての生を終えたような気持ちになりますが、娘の方は異性との出会いが待っている。母と娘では異なる人生が待っていることから、自分の娘なのに許せない気持ちになってしまうのです。
映画にはヌルジャンの母も登場しますが、彼女の肝っ玉婆さんぶりを見ると、ヌルジャンもいろいろなことを耐え忍んで、家族のために尽くしてきたことがわかります。成長した娘は社会で活躍し自立している。娘のことを誇らしく思う一方で、同じ女性として嫌悪感も抱いてしまうのです。
 
――映画は終始ダークなトーンで進み、フェリデの結婚式に母親が自殺を図ることになり、まるでギリシャ悲劇のような展開でした。救いはどこにあるのでしょう? 望めないのでしょうか。
 
アクチャイ監督:映画の終盤で、不良息子のイルケルが妹オズゲの発表会を見に行ったり、結婚式で兄妹が一緒に踊ったりして少しずつ輪ができ、家族がひとつにまとまっていきます。母親のヌルジャンはその光景を見て、兄弟の絆を妨げていたのは自分なんだと気づくのです。家族を邪魔するのはもう止めたい。夫亡き後の自分の間違った人生を終えたい。そんな気持ちを表現したいと考えました。
でももしかしたら、誰かがヌルジャンを見つけて助けるかもしれません。もしそうなら状況は変わるかもしれない。生き延びることができたら、ヌルジャンは真の威厳を取り戻し、違う人生を歩むのかもしれない。いずれにせよ、私は彼女の中にダークな面しかないとは思っていないんです。
 
———石坂PD:婚約者の男性が黙々と水道工事の仕事をするのも、希望に映ります。そういう目で見ると、ラストもオープン・エンド的な印象を受けました。母親が何を飲んだのかは見えていない。ひょっとしたら、ビタミンを飲んだのかもしれません(笑)。いろんな解釈が可能な映画だと思います。
 
アクチャイ監督:それも私の意図したことです。ラストは皆さんに解釈をしていただきたい。私自身、受け取る側の解釈で変わってくる映画が好きなんです。
 
アジアの未来部門
空っぽの家

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