前編より続き
――ここからは、5年間在任なさった感想などを伺います。
いろいろあるとは思いますが、これまで5年間やって来られて、とりわけ印象に残ったことは何でしょう。
依田巽チェアマン(以下、チェアマン):最初の年の第21回では、『レッドクリフPartⅠ』をオープニング作品として上映しました。
東京国際映画祭のシンボルとなったグリーンカーペットを導入したのもこの回ですが、『レッドクリフ』のジョン・ウー監督やキャストの皆様を始め、麻生太郎内閣総理大臣(当時)にもご来場いただきました。こうして、はじめての試みであるグリーンカーペットが非常にいいスタートを切れたことが、とても印象に残っていますし、国内外にも鮮明なインパクトを与えられたと思っています。おかげで5年間、グリーンカーペットを続けることができました。
第21回TIFFオープニングイベント、グリーンカーペット
第22回の時は『ザ・コーヴ』(注4)の上映問題があって、対応に苦心しました。あの時に、映画祭のもつ使命、つまり、表現の自由、文化は政治の制約を受けないといったことを深く自覚しました。
また、第23回では、東京国際映画祭と釜山国際映画祭の交流の架け橋となり、同映画祭で長年フェスティバル・ディレクターを務めたキム・ドンホさんの功績を称える「フレンドシップ・アワード」の授与式があったのも印象に残っています。
キム・ドンホ氏(右)と依田チェアマン(左)
そして、そういったたくさんの交流や、様々な試練を経て、第24回からの「映画の力」というメッセージにたどり着いたと思っています。
その第24回は、東日本大震災があった年で、当初は開催すら危ぶまれましたが、「信じよう。映画の力」を合言葉に、映画で何ができるかは分からないけれど、とにかく映画の力を信じて開催しようということになりました。結果、「映画を通してできること」、「映画がつなぐ人やビジネスの交流」を目指した東京国際映画祭は、映画を愛し、映画の力を信じる大勢の方々の声に支えられ、無事開催することができました。
思えば、中国とも何度か問題が持ち上がりましたが、絶対に解決できると信念をもって臨んだ結果、大きなトラブルにならずに済みました。信じて事に当たれば、すべては良い形で解決するものだと実感しています。
最終的には、東京国際映画祭が国内外から、確実に進化しているという評価をいただくことができました。私もいろいろな仕事をしてきましたが、これは初めて味わう達成感であり、正直、私にできることはやり終えたと思っています。
――思えば、2008年のリーマン・ショックから始まって、依田チェアマン任期中の5年間ほど、映画祭が前途多難な道筋を歩んだことはなかったかもしれません。
チェアマン:はい、就任した08年にリーマン・ショックがあり、政権交代、そして東日本大震災という未曽有の災害が発生し、尖閣諸島問題等の日本と中国とのトラブルが発生したりと、確かに常に何かがありました。そして、景気が非常に冷え込んでいたため、資金集めの面でもかなりのプレッシャーがあったのは事実です。
――第25回の審査委員長はロジャー・コーマン氏で、第22回の時はアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督でした。大御所から新進気鋭の監督まで並んでいますが、審査委員で特に思い出に残っている出来事などはありますか。
チェアマン:第22回の審査委員長であるイニャリトゥ監督は、『ザ・コーヴ』の上映問題で、日本がこの作品をどう思うか、評価するのか、上映はどうするのかという点で大変プレッシャーを感じて、かなり苦慮されていましたね。
私もここでハンドリングを間違えると東京国際映画祭に傷が付くと思い、非常に気を使いました。
最終的には、イニャリトゥ監督が私を信頼して、責任を持って参加してくださいました。
――第25回では、香港のレイモンド・チョウ氏にTIFF特別感謝賞を授与されました。この賞は、第1回の映画祭開催から長年にわたり、TIFFにご尽力いただいた功績をたたえる賞ですね。
チェアマン:香港とは、個人的にも50年近い付き合いがあります。もともと日本の映画業界は香港との付き合いが長く、1985年に第1回のTIFFを開催するにあたって、香港の映画人レイモンド・チョウ氏に大変なお力添えをいただきました。それ以来のお付き合いが続いていることもあって、今回のタイミングで特別感謝賞を差し上げることになりました。ご本人が体調不良で来日できなかったのは残念ですが、大変意味のある賞になったと思います。
香港からは毎年、香港国際映画祭のチェアマンが来てくださいますし、私も毎年、香港国際映画祭に足を運んでいます。
――チェアマンご自身も、昨年11月に米国映画協会(MPAA)で功績を称えられました。
チェアマン:正しくは「AWARD FOR PROMOTING & PROTECTING THE SCREEN COMMUNITY IN JAPAN」という賞で、トロフィーをいただきました。日本の映画業界で、映画の促進と保護に尽力したことに対する表彰だそうです。
MPAAのチェアマンは、クリストファー・J・ドッド氏という米国でも有数の元上院議員(注5)です。彼は来日した時に、東京国際映画祭は世界の映画産業やコミュニティの発展を願う映画人が集まる最適なプラットフォームであると感銘を受け、その後、MPAAで東京国際映画祭をプロモーションしたい、受賞作の上映もしたいと言ってださったので、新藤兼人監督の『一枚のハガキ』を持って、ワシントンD.C.に行くことになりました。
この上映会とレセプションは、MPAAとワシントンの日本大使館が共催で開催してくださり、米国の映画映像団体や政府関係者、大学や日米友好団体のリーダーの方々に加え、藤﨑一郎駐米日本大使(当時)にもご臨席いただきました。そこで私は、サプライズで賞をいただくことになったのです。日米の映画業界の親善のために戴いたものだと理解しています。
MPAAの海外活動のキャッチフレーズは、プロモートとプロテクト、つまり映画の促進と海賊版からの保護です。日本での努力を認めてくださったのでしょう。
ワシントンにて、トロフィー授与時の模様。藤﨑一郎氏(左)、クリストファー・J・ドッド氏(右)と一緒に
――ご自分に対する評価は、100点満点中70点と語っていらっしゃいます。少し辛い点数という印象もありますが。
チェアマン:理想的にはもう少し内容を充実させたかったという思いがあるので、この点数を付けています。もう少し予算があれば、まだいろいろできたのではないかと。今年は国からも力強いサポートがいただけるように、陰ながら頑張りたいと思います。
――三大映画祭を目標にするのではなく、アジアの映画祭として、もっと存在感を発揮すべきではないかという意見もありますね。これについては、どうお考えですか。
チェアマン:映画祭として、もっとパワーアップする必要があると思います。70点という自己評価ですが、それはアジア映画の取り扱いが十分ではないと思うからです。これは予算の問題も大きいのですが、中国、韓国をはじめとするアジア諸国との間の相互理解と協力が必要不可欠ですから。そうした意味では、まだまだやり残したことがある気がします。
ただ、釜山、香港、バンコク、上海、北京と、近隣諸国で開かれる国際映画祭はたくさんあるわけですから、覇権を競うような拡大戦略はとるべきではないと思います。あくまでも映画祭は文化の祭典ですからね。
しかしながら、マーケットはそれとは別の話です。TIFFCOMはさらにビジネスを拡大すべきであり、日本のコンテンツの海外進出のプラットフォームとして、さらに機能させられれば良かったとの思いはあります。
日本の映画製作者は、東京国際映画祭にこぞって出品してほしいですね。その中から海外で注目される映画が出てきて、海外進出を果たすというアウトプットがまだまだ確立されていない。そこに問題があると思います。他方、インプットでの課題は、もっとたくさんのアジア作品が東京に来るべきです。昨年、イランの『別離』が好評を博しましたが、ぜひ国内外の製作者は東京に目を向けてほしいと思います。
一概にアジアといっても、カザフスタンやトルコ、西アジアとたくさんの国があって、招聘するにはかなりの労力と資金が必要になります。しかしこれは、東京国際映画祭にとって非常に大事な課題だと思います。
――では最後に、今後の映画祭にひと言お願いします。
チェアマン:チェアマンを退任しても、新体制の皆さんと同じ方向を向いて、できる限りの協力は惜しまないつもりです。
インタビュー・構成/TIFF制作チーム
注4):『ザ・コーヴ』
第22回東京国際映画祭 追加上映にて公開。和歌山県太地町で行われているイルカ漁を撮ったドキュメンタリー作品。監督はルイ・シホヨス。
注5):クリストファー・J・ドッド氏
MPAAチェアマン
www.mpaa.org MOTION PICTURE ASSOCIATION OF AMERICA