トークセッション“メジャーってなに? インディペンデント出身監督の目標設定とは?” (中編)
奥原浩志監督×松江哲明監督
司会:矢田部吉彦(TIFFプログラミング・ディレクター)
2012年10/24(水)、PFFグランプリ受賞作品『くじらのまち』上映後に行われた、奥原浩志監督×松江哲明監督によるトークセッションの中編です。
奥原・松江両監督のキャリアのスタート地点、そして、いかにして経験を重ねられたかを語った前編はコチラからお読みいただけます。
今回は、目標とした劇場公開を達成した松江監督のその後のキャリアと、奥原監督が中国への移住を決意した経緯が語られます。
矢田部:『あんにょんキムチ』の公開で、ある程度の感触は得られましたか?
松江監督:得られましたが、次に撮るなら見ている人が期待するものを撮ったらダメだなと思いました。『あんにょんキムチ』の取材を受けたり、上映の後に人権団体の勉強会みたいなところに呼ばれて、おばさんとすごい喧嘩になったりして(笑)。「あなたは在日としての意識が薄い!」と怒られるんですよ、そういう映画をわざと作っているのに。「もっと民族的な悲劇を描かなければだめだ!」とか「『あんにょんキムチ2』は?」とか言われて次は全く違うことをやろうと思ったんですね。
矢田部:でも、『あんにょんキムチ』での演出の力が買われたからでは?
松江監督:そこは違いますね。ドキュメンタリーを見ている人は全部、現実だと思っているので、僕に演出力があるとは思わないです。
矢田部:そのあとの『呪いのビデオ』などの仕事に繋がったのは、誰かが『あんにょんキムチ』を見たからではありませんか?
松江監督:実は、『呪いのビデオ』のプロデューサーは見ていなかったんです。でも僕はそういう人に救われているんです。「ドキュメンタリーを撮れるんだったら、『呪いのビデオ』もできるでしょ」って言われて凄い人でした。
一本撮って、あまり上手くいかなくても「今回はダメだけれど次は頑張ってね」ってまた予算をくれて。僕はそのプロデューサーを「日本のロジャー・コーマン」と呼んでいました。それは本当に有り難かったです。
矢田部:その方との出会いがかなり大きかったのですね。
松江監督:そうですね。その後やったアダルトビデオも、カンパニー松尾さんと出会ってやはりダメだったら次、頑張れよという方でした。映画の人たちは完成度を求めるんですよね。でも、彼らのように量産している人は、とにかく尺を合わせてという感じで作っているんです。その制作で得た経験はやっぱり今にも繋がっています。
特にデジタルになってから劇場公開するのは敷居が低くなっていて、『呪いのビデオ』もアップリンクで上映してもらいましたし、アダルトビデオとして作った『セキ☆ララ』(06)も山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映したり、最初のフォーマットはAVだとしても映画館でやれば映画になるということを経験したので、それは今でもすごくいきていますね。
矢田部:ターニング・ポイントとなったのは『セキ☆ララ』と位置付けてもいいんでしょうか?
松江監督:そのあとの『童貞。をプロデュース』(07)ではないですかね。『童貞。をプロデュース』は、実は全部アダルトビデオで得た方法論で作りました。あの企画は元々AVで撮りたかったのです。でもAVの企画では、童貞の男の子が主人公ではダメで女優さんをメインにしなくてはいけない。ならば、自主映画でやろうと思って。
矢田部:『童貞。をプロデュース』は本当に面白い作品です。これが2007年ですね。そのとき松江さんは30歳になっていた。奥原さんが『16 [jyu-roku]』を撮っていた時に、松江さんは『童貞。をプロデュース』を撮った。『童貞。をプロデュース』でかなり松江さんの名前を見ることになりました。
松江監督:あれは作品そのものの力というより、やっぱり劇場での上映の仕方だったと思います。それまでインディペンデント映画がどんどん外に広がっていくということもなかったし、誰もあんな映画がヒットするなんて思わなかった。童貞二人が出ているドキュメンタリーを、誰が見に来るんだとか言われて。ですので、(通常の映画の宣伝とは)全部逆をやったんです。写真じゃ来ないから、(コメントを)漫画家の人に頼もうと思って『鈴木先生』の武富さん(武富健治・漫画家)に書いていただいたり、「こういう映画をやるんだったら、みうらじゅんさんのコメントがないとダメだよ」と言われたから、じゃあ、みうらじゅんさんに見せようと。お客さんが育ててくれた映画なので、映画そのものというより、その経験の方が僕には大きかったです。
矢田部:松江さん自ら仕掛けていますね。
松江監督:直井さん(直井卓俊・映画プロデューサー)と二人で仕掛けないとできなかったですから。宣伝費は多分50万くらいです。試写会もやっていないし、ポスターを作って映画館に貼っても、映画館のお客さんは来ないだろうから、それよりライブ会場に貼ろうという事になり。そういうことが、僕には映画を作ったことより今に繋がっている感じです。
矢田部:映画館での展開はなければいけなかった?
松江監督:それは映画館が映っているからです。『童貞。をプロデュース』は、シネマロサさんの映画館を借りて撮影したので、支配人が完成したら見せてねっと言われて。それで見ていただいた時に、「これ、うちでやらないかな?」と言われて、ヨッシャ―という感じでした。
矢田部:松江さんが映画監督というクレジットを使い始めたのは結構後ですけれど、映画を作る人としてキャリアを積んでいくことに迷いはなかったですか?
松江監督:迷いはないですね。とにかく映画を作り続けることは、多分、『あんにょんキムチ』のときから迷いはないのです。ただ、「食える食えない」は別ですね。それは、今だにそうですね。今も映画だけでは食べていけてないですから。映画評だったり、原稿を書いたりする仕事でもお金をいただいています。ただ、その仕事も映画を撮っているからで、それはすごく有り難いですよね。
矢田部:ある形の映画監督のサバイブ方法なのかもしれません。
奥原監督に話を戻しますと、2007年の『16 [jyu-roku]』という作品が、監督としてやっていけるということでしたが、その後、中国への移住を決意するという、その決断に至った過程を話して下さい。
奥原監督:まあ、『16 [jyu-roku]』にしても、それまでも脚本はたくさん書いていて、こういう企画をやりたいがお金がかかる、と。全部がうまくいかなくて、何か目的があって中国に行ったわけではないんです(笑)。
中国へは、文化庁の研修制度(※)に救われました部分もあります。研修制度がなかったら行けなかったわけですから。でも、行ったから何かが大きく自分の中で変わったのではなく、相変わらず脚本を書いてという作業を続けていました。それで、やっと『黒い四角』が撮れました。
※文化庁が行っている新進芸術家の海外研修制度(新進芸術家海外研修制度として美術,音楽,舞踊,演劇,映画,舞台美術等,メディア芸術の各分野における新進芸術家の海外の大学や芸術団体,芸術家等への実践的な研修に従事する機会を提供している)。
矢田部:中国に行かれた時は、「中国で1本映画を撮るぞ!」という意気込みがあったわけではなかった?
奥原監督:もちろん撮るつもりでした。あの制度はどこに行ってもいいんですね。だからニューヨークやパリも考えましたけど、自分がニューヨークやパリで映画を撮るのは全然イメージが湧かなかった。行ってゼロから探すよりは、中国なら前から興味があったし、日本との関係もあるし、何か見つけることができるだろうということで北京を選びました。
当然、研修目的を書かなければいけないのですが、僕は映画を撮ると書きました。1年間のプログラムでしたがそのまま中国に残って、やっとその研修目的が果たせました。
矢田部:今まで撮られた作品について、その時点の心境を語っていただきましたけれども、では『黒い四角』を撮り終わっての心境はどのような状態でしょうか?
奥原監督:今回は借金もして、小さい規模ですけれども半分自分でお金を出しました。完成したばかりですが中国語の映画で、日本での配給がどうなるのかはまだ決まっていません。今後、どういう形の広がり方をするのか、要はお金の流れですね。お金がどう入ってきて、どう広がるのかというのは実はすごく興味があります。自分でやらなければいけないのですが、何とか回収できて次の作品までの生活費が稼げるのならば、この形を今後も続けていければいいのですけれど。
もちろん、もっと大きな規模の作品もやってみたいのですが、それと同時に、今回の『黒い四角』くらいの規模も、自分でやっていくということを並行してできたら、今後は一番いいかなと思っています。
矢田部:『黒い四角』の展開を、1年後くらいにお話を伺ってみたいです。
→後編につづく:両監督からの若い監督へのメッセージは必読です!お楽しみに!
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